
| アーティスト名 | しいの実(しいの みのる) |
| 本名 | 椎野 壽脩(しいの ひさなが) |
| 出身地 | 大分県宇佐市麻生 |
| 最終学歴 | 大分県立四日市高等学校 卒 |
| デビューのきっかけ |
1962年に上京し、船村徹氏に師事。 1965年NHKオーディションに合格。歌唱曲:「長崎の女」/「潮来舟」 |
| オフィス |
厚生労働大臣許可 (有)しいの実 音楽事務所(岐阜県岐阜市) |
| その他 |
1981年、「高山の夜」にてビクターレコードヒット賞を受賞。 1999年、岐阜市に長年在住して岐阜の歌を多数、全国に発信した功績を認められ、岐阜市より「ふるさと文化賞」を受賞。 |
しいの実 主な代表曲と曲解説
「高山の夜」(ビクター VISL-10021)
しいの実は、子供のころから春日八郎氏の演歌を聴いて育ち、幼少時代から歌手に憧れて成長する。
そして成人を過ぎた21歳でついに歌手を目指して上京。
昼間は菓子問屋で働き、夜は恩師である船村 徹氏に師事して演歌をじっくりと教わる日々が続く。
1968年、飛騨高山で地元の人が作曲した「高山の夜」を「高山へ来て唄ってくれないか」との誘いを受ける。しかし本人は演歌歌手になるために九州から上京して日夜勉強中ということで断ったが、地元岐阜の人々の強い要望でデモテープを聴き、すぐさまその歌に惚れ込んで高山行きを決意。
1968年2月21日の夕暮れ、列車を降りた「高山駅」は零下18度という厳寒の地。どんな苦労にも耐える覚悟で東京を離れた温暖な九州育ちの男にとって、この寒さは心身共に大きな衝撃を受ける。
しかし、地元の人々の思いやこの歌の素晴らしさを胸に、しいの自身は覚悟を決め、その翌日から作曲を担当した安江登志美がアコーディオンを持ち、しいの実は小さなアンプを持っての高山の夜の街を回るキャンペーン活動が始まった。
「この歌をレコードにするために頑張っています。どうぞ宜しくお願いいたします。」と、高山中のバー、クラブ、ホテルや旅館の宴会場などいたるところへ回り歩く日々が続く。
その甲斐もあり、地元岐阜の人々の暖かい後押しを背景に名曲「高山の夜」は1969年1月5日、ビクターレコードより全国発売され、中部地区を中心に大ヒット曲となった。
更に、1979年にはビクターの要請により「高山の夜」の再発売が行われ、1981年にビクターレコードのヒット賞に輝き、全国的なヒットを達成。
デビュー当初は、持ち曲のレコード化が実現した暁には、活動の場を東京にすると決心していたが、岐阜の地元の人々の熱烈な応援に心を打たれ、しいの自身も応援してくれる人々に応える気持ちで岐阜県民の一人となり、地元の人々と共にデビューから40年余り経つ現在も今では地元と呼ぶにふさわしい岐阜を中心に音楽活動を展開している。
「わすれ宿」
恩師、船村徹氏から提供された曲。瀬川瑛子との共作。
「のぞみ(希望)」(日本クラウン CRDN-2024)

船村徹氏が1981年、岐阜の笠松にある女子刑務所で服役する女性たちに贈った歌。
しいの実自身もその女子刑務所へ船村氏と同行し、船村氏がギター1本で唄ったこの歌は、服役する約400人の女性たちの心に響き、歌い終わった後には刑務所内の会場内は彼女たちの嗚咽の渦と化していた。
その場にいた、しいの実も非常に感銘を受け、すぐさま しいの自らが船村氏に「この歌を私に唄わせてください。」と懇願したが、船村氏の「この歌は笠松の女性たちに贈った歌だからレコード化はしない」という強い思いがあったため、このときはレコード化には結びつかずに終わる。
このときから18年後の1999年、「私の30周年記念曲としてあの歌を私に唄わせていただけないだろうか。」とのしいのの問いかけに対し、「あれから18年過ぎた今でもこの歌に対する気持ちが変わっていないのなら、君に唄わせてあげよう。」という返事を船村氏よりもらい、ついに18年越しの思いはレコード化という、しいのが求め続けた最高の形で実現した。
この歌は しいの実 自身が「生涯唄い続けていく歌」と語っており、本人の特別な思いが込められている。
「ふるさと恋唄」(日本クラウン CRCN-992)
東京での辛く厳しい下積み時代、しいの自身がいつも思い出したのが「ふるさと」であった。
遥か彼方に見える山を見ては、「ああ、あの山の向こうの、そのまた向こうに俺の愛するふるさとがあるんだ。そこにいる友達や両親はみんな元気で暮らしているだろうか?」といつも思い、涙を流した。
その涙と共に生まれた歌、それがこの「ふるさと恋唄」である。


